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初雪草とヤドカリ、あるいは

読書感想、アニメ感想、舞台探訪など。オタクな日々。

米澤穂信 〈古典部〉シリーズ『連峰は晴れているか』の時系列について(ネタバレあり)

今回は私が愛してやまない〈古典部〉シリーズのお話をしたいと思います。

実はこのブログ名も「ぶれいくうっど」という名前も〈古典部〉シリーズ由来のものとなっております。

 

京都アニメーションさんで「氷菓」としてアニメ化もされています。

 

アニメも最高でしたね

 

さて、今回は『連峰は晴れているか』のお話です。

 

原作『いまさら翼といわれても』まで既読じゃないと「なんのこっちゃ」となると思います。あとがんがんネタバレもしているのでご注意ください。

 

 

『連峰は晴れているか』の時系列について

 『連峰は晴れているか』は『いまさら翼といわれても』(2016.11.30刊行)に収録されている短編の一つです。

 

ただこちら初出は野性時代第56号(2008.7刊行)となります。

ぼくたちの米澤穂信、通称「ぼくよね」。〈古典部〉シリーズファンの間では必須のアイテムです。

 

 

よしだもろへ先生によるコミカライズは必見です。

 

話を戻します。 

 

連峰は2008年に野性時代に掲載されてから長らく宙に浮いた状態でどこにも収録されていませんでした。

この連峰が時系列的にどこのお話なのか、というのも長らく謎だったうえにこの後二転三転することとなるのです。

 

野性時代56号

2008年7月刊行の野性時代第56号に『連峰は晴れているか』の短編が掲載されたのが一番初めとなります。

この中には時系列のヒントとなるような記述がいくつかありました。

 

まず、

 

古典部の他には課外活動に関わっていない一年生の俺が、どうして二年生の名前を知っているものか。

引用:野性時代第56号『連峰は晴れているか』より

 

 初っ端に出てくるこの記述から、奉太郎が一年生の話というのが分かります。

 

「うん。ヘリコプターで喜んでたのは、小木先生だった。あれって、けっこう前よね。たぶん中学に入学してすぐじゃないかな。」(中略)三年前か。ずいぶん記憶が曖昧になっている。

 

授業中、中学一年生にABCをから英語を教えながら、神垣内連峰周辺の天候が回復したかどうかを気にしていた。(中略)もう一度、三年前のことを思い出す。

引用:野性時代第56号『連峰は晴れているか』より

 

中学に入学してすぐ、つまり中学一年生の時を「三年前」と言っています。ここからも奉太郎たちが現在高校一年生だということが読み取れます。

 

この後も頻繁に「三年前」というワードは随所に出てきます。 

 

以上のことから細かい時期は不明なものの『連峰は晴れているか』は一年生のどこかの出来事だと思われてきました。

 

TVアニメ「氷菓

この時はまだ『連峰は晴れているか』は単行本化されていません。そのため当時はアニメオリジナルの話だと思っている人も多かった印象を受けます。

 

ご存じの通りアニメ氷菓は原作を時系列順に並べなおして放送しています。

 

で、肝心の連峰は「クドリャフカの順番」と「心あたりのある者は」の間の第18話として放送されました。

 

クドリャフカの順番」は10月初旬、「心あたりのある者は」は11月1日のお話です。

 ということはアニメにおいては連峰は10月のお話ということになります。

 

高校一年生の出来事だとするとここに入れたのは妥当かな、という印象でした。

 

限定版DVD・BD9巻の封入特典に「連峰は晴れているか」のミニ小説がついていました。こちらはもちろん野性時代に掲載されていたものと同じものです。

 

 

ちなみにタスクオーナ先生によるコミカライズ氷菓もアニメに準じた時系列となっています。連峰はコミカライズ10巻に収録されています。

 

 

ここでいったん時系列については決着がついたかに思われました。

 

しかし

 

問題は単行本『いまさら翼といわれても』が刊行されて起きたのです。

 

単行本『いまさら翼といわれても』

2016年11月30日に刊行された『いまさら翼といわれても』、この中に『連峰は晴れているか』も収録されました。約8年越しの単行本収録です。

 

まず収録順を見て驚きました。

 

  1. 箱の中の欠落
  2. 鏡には映らない
  3. 連峰は晴れているか
  4. わたしたちの伝説の一冊
  5. 長い休日
  6. いまさら翼といわれても

 

連峰が真ん中に入っている????

 

さらに米澤先生のブログでは

 

物語の時期は、折木奉太郎たちが二年生になった一学期、ほぼ『ふたりの距離の概算』と重なっています。

『いまさら翼といわれても』: A study in gray

 

とあります。

 

二年生とな!

 

この時点でかなり混乱していましたが、さらに内容にも改変が加えられていました。

 

古典部の他には課外活動に関わっていない一年生の俺が、どうして二年生の名前を知っているものか。

引用:野性時代第56号『連峰は晴れているか』より

 

古典部の他には課外活動に関わっていない俺が、どうして他のクラスのやつの名前を知っているものか

引用:角川書店単行本『いまさら翼といわれても』より

 

「一年生」が消えて、さらに「二年生」が「他のクラスのやつ」になっています。

 

そして、野性時代56号では先輩として名前の挙がった2年B組の小木高広さんですが、古典部の学年が2年生に引きあがったことにより同級生となり、さらには2年D組にクラス替えさせられてました。 

このクラスの変更にどういう意味があるのか、わたし気になります!

 

さて、他の改変についても見ていきましょう。

 

「うん。ヘリコプターで喜んでたのは、小木先生だった。あれって、けっこう前よね。たぶん中学に入学してすぐじゃないかな。」(中略)三年前か。ずいぶん記憶が曖昧になっている。

引用:野性時代第56号『連峰は晴れているか』より

 

「うん。ヘリコプターで喜んでたのは、小木先生だった。あれって、けっこう前よね。たぶん中学に入学してすぐじゃないかな。」(中略)入学したての頃か。ずいぶん記憶が曖昧になっている。

引用:角川書店単行本『いまさら翼といわれても』より

 

「三年前」が「入学したての頃」に変わっています。 

 

他の「三年前」という記述に関しても「入学した年」などに置き換わっています。

 

しかし単行本には一つだけ「三年前」という記述が残っている箇所があるんです。

 

千反田の呟きで、もう一度、三年前のことを思い出す。

引用:角川書店単行本『いまさら翼といわれても』より

 

これはたぶん単純なミスかと思われます。

その証拠に次に刊行された文庫版ではちゃんと「四年前」になっています。

 

内容にかかるような大きな変更はこれくらいですが、その他にも野性時代掲載時から文章の区切り、てにをは、などなど細々とした変更がけっこうされています。

見比べてみるのも面白いかもしれません。 

 

文庫『いまさら翼といわれても』

 2019年6月14日に文庫版『いまさら翼といわれても』が発売されました。

 

 

さすがにこちらは内容に関しては単行本から大きな改変はありませんでした。

上記で触れた「三年前」が「四年前」に修正されていたくらいでしょうか。

 

そして文庫発売を記念して、特設サイトもオープンしました。

そこではこんな風に紹介されています。

 

本作は彼らが高校2年生の1学期から夏休みに入る頃のエピソードが集められた短編集。

vol.13 米澤穂信『いまさら翼といわれても』刊行記念スペシャルインタビュー|角川文庫創刊70周年 特設サイト

 

これにより 『連峰は晴れているか』が時系列的には二年生の頃、1学期から夏休みまでの間ということが確定となりました。

 

笠井スイ先生のネグリジェ千反田さん最高!

 

なぜ一年生から二年生に変更されたのか?

 なぜ一年生の出来事から二年生への出来事へと変更されたのか。それには折木奉太郎という人間の人物像が少し関わってくるかと思います。

 

折木奉太郎について

言わずもがな、〈古典部〉シリーズの主人公です。

 

奉太郎については作中でたびたび人の心の機微が分からない人間を見ていない、という描写が出てきます。

 

愚者のエンドロール』では千反田さんがずっと本郷の真意を気にしていたにも関わらず、それをないがしろにしたために痛い目をみます。

 

また、『クドリャフカ』の順番では奉太郎以外の古典部三人がそれぞれの屈託を抱える中、一人晴れ晴れとした気分で「打ち上げといこうか」なんて提案しちゃいます。

 

その音は、満足のいく結末を祝福するベルにさえ聞こえた。

多分、俺たち全員が、そう感じていただろう。

引用:角川文庫『クドリャフカの順番』より

 

 最後はこんな言葉で締めくくられます。まあ、なんというか、人の気も知らないで、という感じですね。

 

 

この二つは明らかな対比がなされていると思います。真逆の心境ながらどちらも奉太郎の心の機微の疎さを現わしているのではないでしょうか。

 

また、『ふたりの距離の概算』では摩耶花から

 

『わかんないか。そうよね。あんた、人を見ないもんね』

引用:角川文庫『ふたりの距離の概算』より

 

という痛烈な一言を浴びせられます。

 

ただし『ふたりの距離の概算』では奉太郎は「千反田はそんなことをするような人間ではない」という考えの元、自発的に推理を進めていきます。

愚者のエンドロールとは逆です。

 

私は〈古典部〉シリーズにおいては遠まわりする雛』が一つのターニングポイントだと思っています。

 

一年を通して千反田えるという人物と交流し、『遠まわりする雛』で彼女の立場、考えを深く知るようになるのです。

そこから奉太郎の心境にも変化があったように思います。

 

そして『連峰は晴れているか』、これについても奉太郎は他人に対して無神経でいたくないという考えのもと自発的に行動します。

 

そう考えると「連峰は晴れているか」を二年生の出来事、さらに概算と同じ時期にしたのはこれ以上ないほど自然です。

奉太郎の心境の変化に関わってくる物語だといえるからです。

 

最後に

長々と書き連ねてしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

あらためてまとめてみて、奉太郎も成長しているんだなあと感慨深くなりました。

 

現在『いまさら翼といわれても』以降の話が出てない状態でとてもやきもきしていますが、今後の展開がわたし、気になります

 

修学旅行編楽しみ