※2020年9月にふせったーやTwitterで公開していた感想を加筆修正しています。
※ネタバレしてます。ご注意ください。
はじめに
2017年10月21日。
この日、京都でTVアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の先行上映会がありました。
無事着いた〜 pic.twitter.com/jX6I9O9cFk
— yuu (@i_cecream2012) 2017年10月21日
これを見るためにわざわざ東京から京都へ飛びました。
これが私とヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品との出会いになります。
ちょっと待てばテレビで放送されるものをわざわざ京都まで……と思われるかもしれませんが、大きなスクリーンで観た甲斐は十分ありました。(ただ、この時はFree!TYMの先行上映もあったのでそれ目当てということもありました。)
「劇場クオリティ」という言葉、あまり多用するのは好きではないのですがヴァイオレット・エヴァーガーデンは紛れもなく劇場クオリティのアニメでした。
TVシリーズのアニメを大きなスクリーンで見ると、たしかに迫力はあるんですが引きのシーンなどは細かい粗が目立つこともあります。
しかしヴァイオレット・エヴァーガーデンは驚くほど鮮明で、本当に劇場アニメとして作成されたようなクオリティでした。
これは本当にテレビシリーズなのか……と当時は本気で半信半疑でした。
しかも京アニのことですから1話2話のつかみだけではなく最終話に向けて作画のクオリティが上がっていくことは想像に難くありません。
実際TVシリーズの出来は本当に満足のいくもので……
とまあTVシリーズの感想はこれくらいにして、今回は劇場版の感想を綴っていきたいと思います。お付き合いください。
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
冒頭のアンの手紙
ありがたいことに冒頭10分の映像が公式で公開されてます。
アン・マグノリアのお話はTVシリーズでも屈指の名エピソードです。
これを劇場版の冒頭にもってきたのが本当に予想外で、しかし最高の構成でした。
TVシリーズを見た人はこの時点で涙腺崩壊必須です。それと同時に、未見の人に向けてこのヴァイオレット・エヴァーガーデンという世界全体を紹介するという役割も果たしています。
そして注目したいのが上記の冒頭シーンにも出てきたこの手紙のアップのシーンです。
ところどころにあるシミが私には涙のあとのように見えました。
結婚して、子どもが生まれて、その子どもも独り立ちして孫が生まれて、とアンの人生は幸せに満ちていたことでしょう。
それでもつらいことや悲しいことはたくさんあったと思います。
そういう時に手紙を見返しては涙していたのかな、と思いを馳せるのです。
時間の移ろい
TVシリーズの頃から季節や時間の経過は丁寧に描写されていました。ちょくちょくはさまれる早回しで季節のうつろいを見せる演出が好きです。
そして今回の劇場版は時代の移り変わりがこれまでにも増して丁寧に描かれていた気がします。
重たい樫の扉を手で開けるドアマンの男性、街頭に火を灯していく人足、無くなっていくもの、新たにできたもの……それでも変わらない伝えたい想いがある、というのがこの映画の主題だと思います。
むかし、目覚まし時計が無かった時代はみんなどうやって起きてたんだろうと気になり調べたことがあります。
ヨーロッパにはなんと早朝長い棒で窓を叩いて(小石投げる場合もある)起こしてくれる人間目覚まし時計的な仕事があったとか。
これもヴァイオレットちゃんの時代には現役だったかもしれないとふと思いました。
京都アニメーションの日常描写
京アニ作品の映画が公開されるたびに言ってることなんですが、歩く、走る、喋る、座る、立つ、眉毛の動き、視線の持って行き方、髪の毛の揺れ、服の動き、そんな小さな日常描写を丁寧に丁寧に積み重ねているところが本当に好きです。
挙げるとキリがないんですが、今作でいうと特に、鍵穴に一回で鍵が刺さらなくて何回か差しなおそうとするところや、最後のシーンで足が動かなくて自分の足を叩くヴァイオレットちゃんなどが好きです。
アニメージュの京アニ特集で杉井ギサブローさんが「アニメーションでは生活芝居が一番難しい。これを身につけたらたいていのものは描ける。逆に派手なアクションしかやったことがないのにいきなり生活芝居はできない」ということを言っていました。
昨今のアニメは作画がいいものも多いですよね。
バトルシーンなどは正直京アニよりすごいと思う制作会社さんはいくつもあります。
でも日常描写で京アニの右に出るものはいないと個人的には思っています。(あくまで個人の感想ですのであしからず。)
あらためて京アニはすごいことを当たり前のようにやっているんだなあ。
ギルベルト・ブーゲンビリア
ちょっと口が悪くなります。先に謝っておきます、すいません。
「こんのヘタレが〜〜〜〜」
と、劇場版のギルベルトに対しては叫びたくなりました。
いやだってね、なんでヴァイオレットちゃんに会いに行かないのかと。
ヴァイオレットちゃんが会いに来たのに会ってもあげないのかと。
「うん、記憶喪失なんだろうな、たぶん」と最初は思っていました。
でも別にそんな設定はなかったぜ!
ただ逆に、今回の劇場版ではギルベルトの情けないところ、彼が抱えてきたものなどが見えてきて、人間味が加わった面もあります。
テレビシリーズはヴァイオレットちゃんから見たギルベルトの描写がほとんどだったため、ギルベルトの本心ってよく分からないところがあったんですよね。
パンフレットで浪川さんが、ギルベルトが先に「愛してる」を言ったことに「焦る男心」と表現していて、実はギルベルトのほうこそヴァイオレットちゃんが側にいないと駄目なのかもしれないと思いました。
当初、ギルベルトを失ったヴァイオレットちゃんは無気力で生きる意味を失っていて、「ヴァイオレットちゃんはギルベルトが側にいないと駄目なんだな……」とほろりとしたものです。
しかしドールの活動を通していろいろなことを学んで、彼女はいつの間にか一人の足で立っていました。
エカルテ島でギルベルトに拒絶された後も、一瞬もとのヴァイオレットちゃんに戻ってしまうかもしれないという考えがよぎりました。
しかしユリスのことを聞いて、嵐の中帰ろうとして、彼女がギルベルトよりも依頼人を優先させたことで、いつの間にか一人で立てるようになっていたんです。
ヴァイオレットちゃんはもしギルベルトがいなくても傷を抱えながら前に進めると思うけど、ギルベルトはヴァイオレットちゃんがいないと生きていけないんだと思います。たぶん。
とはいえ二人一緒に幸せになってくれて良かったです。
これからはギルベルトもヴァイオレットちゃんに情けない面を見せていってさりげなく甘えたりするんだろうなあ、と考えるとにやにやしてしまいますね。
特典小説『ヴァイオレット・エヴァーガーデンIF』
今作では入場プレゼントとして4種の短編小説の冊子が配布されました。
幸い全部ゲットできたのですが、いやもうこれが数量限定の特典なのが本当にもったいない!
おお、まじで繋がる…! pic.twitter.com/hYCE1MEvIl
— yuu (@i_cecream2012) 2020年10月5日
全ヴァイオレットファンに読んでほしい
こちらは原作者 暁佳奈先生の書き下ろしですので当然設定は原作準拠となります。
原作はアニメとはまた違った展開となります。原作は原作でとても良いです。
原作についても語りつくしたいところですが、それはまた別の機会にしたいと思います。(長くなりそうなので)
4作品すべて良かったのですが、特に『ヴァイオレット・エヴァーガーデンIF』はディートフリート好きの全人類に読んでもらいたい……!
もういろいろ衝撃でした。
「IF」とついている通り、もしディートフリートがヴァイオレットちゃんを手放さずそばに置いていたら、というパラレル設定のお話です。
(ヴァイオレットと名付けたのはギルベルトなのでこちらの「IF」では当然ヴァイオレットという名前ではないのですが、便宜上ヴァイオレットちゃんと呼びます。)
「IF」のヴァイオレットちゃんとディートフリートは別に恋人ではありません。どちらかというとギルベルトといい感じになっていることを匂わせています。
しかし、ディートフリートとヴァイオレットちゃんは恋人よりももっと特別な、強固な関係を築いているように感じました。
ギルベルトとはまた違った「愛」の形です。
原作『エバー・アフター』でディートフリートが、もしギルベルトではなくヴァイオレットちゃんが自分と一緒にいたら、ということを想像して独白する箇所があります。
きっとディートフリート・ブーゲンビリアの側に居たヴァイオレットは、彼の為に彼より先に死んだだろうから。
引用:KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン エバー・アフター』より
ディートフリートは悲観的ですが、「IF」を読む限りはやっぱりそんなことにはならなかったと思います。
「IF」は暁先生なりのディートフリートへのアンサーの物語だったのかもしれません。
家族でもなく、友人でもなく、恋人でもない「IF」の二人の関係が好きです。
ディートフリートは"彼女"になんて名前をつけたんでしょうね。
さいごに
あの事件があってから世界は一変し、あくまで傍観者でしかない私ですらどうしようもない喪失感に苛まれる日々でした。
そんな中映画の公開にこぎつけてくれた京都アニメーションさんには本当にファンとして感謝の言葉しかないです。
エンドロールで流れた「サポーティングスタッフ」には「全員で完成させた作品」という京アニの強い意志が感じられました。
本当に本当にありがとうございます。