ふせったーに掲載していた記事をブログに集約させるためにお引っ越ししました。
※2017年11月4日に公開したものを加筆修正しています。
※原作、映画ともにネタバレしてますご注意ください。
はじめに
私の大大大好きな〈古典部〉シリーズの実写映画が2017年11月3日に公開されました。
正直なところ、言いたいことはいろいろありますし、手放しで褒められる出来かと言われると少しためらってしまいます。
(原作に忠実に、と監督が発言していたわりにアニメを彷彿とさせる演出がけっこうあったことは今でもちょっともにょもにょしています。)
ただ、関谷純と糸魚川教諭の関係に関しては考察の幅が広がったように思います。
そこで今回はこの二人に焦点を絞った考察をちょっとしてみます。
そもそも〈古典部〉シリーズに何か動きがあるだけで嬉しい。
糸魚川養子と関谷純
糸魚川養子という人物について
実写版では斉藤由貴さんが演じられています。
映画『氷菓』で誰が一番良かったか、と問われたらまず間違いなくこの斉藤由貴さん演じる糸魚川教諭を挙げます。
やはり斉藤由貴さんは独特な雰囲気をお持ちですね。
次に挙げるとしたら、特別出演ということで声のみの出演だったものの圧倒的存在感を放っていた貫地谷しほりさん演じる供恵さんでしょう。
閑話休題。
そしてなんと今回の実写映画では糸魚川教諭の右耳が聞こえないという設定が追加されていました。
最初に奉太郎が糸魚川教諭に声をかけた時、彼女の様子に違和感を持ちました。
声をかけてもしばらく気が付かず、奉太郎が何度か声をかけるときょろきょろとあたりを見回してやっと奉太郎の様子に気が付くという感じだったからです。
すでに原作を読み、後の展開を知っている身としては、なんとなく違和感は持ったもののまさかこれが伏線だとは思わなかったです。
そして2度目に声をかけた時、奉太郎はちゃんと左側にまわって声をかけていました。奉太郎の表情や様子などから彼は最初に声をかけた時から糸魚川教諭の右耳が聞こえないということに気が付いていたんだと思います。
この演出はなかなかニクイ。
原作と実写における「傍観者」の立場の違い
原作からはあくまで糸魚川教諭は傍観者の一人という印象を受けます。
もう一度、あら、という声。糸魚川教諭はほとんど動揺を見せない。
角川文庫『氷菓』より
彼女の様子は終始穏やかで関谷純がインドで行方不明、ということを聞いても上記のような態度をとります。
真相を語り始めた後も その態度は崩れません。
語り口は淡々として感情は交じらず、俺はそこに三十三年という年月を感じた。運動の熱意も、代表者を押しつけあう怯懦も、最早古典なのか。
角川文庫『氷菓』より
関谷純の存在は糸魚川教諭の中ではすでに古典になっていたのではないでしょうか。
一方、映画は傍観者と言っているものの、ある意味彼女は当事者で被害者ともいえるような立場です。
関谷純に助けられ、自分は右耳を傷つけられ、そしてそのせいで象徴として祭り上げられ彼は学校を去った。糸魚川教諭の存在が間接的に退学の要因となっています。
映画では彼女は未だ関谷純のことを古典にできていない印象を受けました。
これに関してちょっと気になるところ。
女生徒を助け英雄に祭り上げられ退学、という理由が弱い気もします。
映画の描写だとみんなを扇動しているリーダーらしき人物も映っているので通常ならそちらに責任がいくのでは?と思ってしまいます。
原作では「貧乏くじをひかされた」とあり、名目上とはいえ運動の当初から関谷純がリーダーというのは周知の事実となってます。そちらのほうが責任を取らされイケニエとして退学ということもすんなり納得がいきます。
氷菓創刊号
原作では未だ行方が分からない氷菓創刊号ですが、映画の描写だと糸魚川教諭が持っていたことにが明かされています。
関谷純のことをずっと引きずっている彼女なら、どこにも出さず閉じ込めるように引き出しにしまっていたというのも理解できます。
では逆に原作でも糸魚川教諭が持っていた、と仮定するとどうでしょう。
うーん、原作の糸魚川教諭はより傍観者的立場なので後生大事に創刊号を持っているとは考えづらいですが……
ただし、神山高校に赴任してきた際に何かの折に見つけて隠した、という推測はできます。
いくら糸魚川教諭の中で関谷純のことが古典になっていたといってもおおっぴらにするような出来事ではありません。
現に原作の糸魚川教諭は「氷菓」の意味も知っていて意図的に隠していたようなふしもあります。
糸魚川教諭を見ると、特に反応を示していない。もしかしたら、とっくにこの意味に気づいているのかもしれないな、と俺は思った。(中略)俺が糸魚川教諭の立場でもあまり公言するようなことではないかな、という気にもなる。
角川文庫『氷菓』より
何より古典部のメンバーが図書室に文集を探しに来た時に確認もせずやけにきっぱり「ここにはない」ということを断言していたのも気になります。
「ない」ことを知っているということは、少なくとも一度は図書室内をくまなく探しているということになります。そうなると他の場所だって探している可能性はあるわけで……。
と、まあこれはあくまで映画で創刊号のありかが明かされたことによる推測ですのであしからず。
そして一方映画の糸魚川教諭は「氷菓」の意味を本当に知らないようでした。
声を上げられなかった、悲鳴をあげられなかった、というのはある意味暴動にまきこまれ右耳を負傷し、関谷純の退学に何もできなかった糸魚川教諭の後悔にもかかっているのではないでしょうか。
(助けられた時なぜ糸魚川教諭がわざわざあの場にいたのか、関谷純が校舎の中にいたのか、という謎はさておき)
舞台挨拶(ユナイテッド・シネマ豊洲)
せっかくなので2017年11月3日ユナイテッド・シネマ豊洲であった初日舞台挨拶のレポなんかも載せたいと思います。
こちらも当時ふせったーで公開していたものです。
登壇者は山崎賢人さん、広瀬アリスさん、小島藤子さん、岡山天音さん、天野菜月さん、本郷奏多さん、安里麻里監督です。
- 高山での思いでは?という質問に対しては満場一致で「飛騨牛!」の声
- 山崎さんと岡山さんの部屋が小島さんの上だったがどったんばったんうるさかった。山崎さんと岡山さんはいつもどちらかの部屋に入り浸っていた。
- 役作りで気を付けたこと
奉太郎
省エネということで歩き方や座り方にもこだわった。
千反田さん
映画ではワントーン上の声を出していた。なので地声が低くてビックリされる。奉太郎のことをつかむ場所も意識。
里志
いつも笑みを絶やさないという設定で悩んだ。小説やアニメならそういうキャラもありだけど、現実ではそんな人そうそういない。
真面目なシーンは真面目に演じるという結論に。
ただ糸魚川先生とのシーンで「真面目な笑み」というのを意識したが、カットがかかって斎藤由貴さんに「どうしたの?」と言われたのでやはり真面目なシーンは真面目な顔をすることにした。
摩耶花
小島さんの性格は摩耶花に近いので特に役作りは意識しなかった。 - 奉太郎の推理シーンでカメラがぐるぐるまわるのが印象的。山崎さんが実際台にのってぐるぐるまわってる。背景のぐるぐるはCGで合成。(技術的なことも監督が言っていたけど聞き取れず…)
- キャストさんたちの好きなシーンは千反田邸での検討会。2日間かけて撮影。紙に書いてあるものも実際みんなで書いたりした。
- 里志の巾着にはおせんべいが入っていた。ぶんぶん振り回してたら最後のほうこなごなになってた。なぜおせんべいなのか?というと里志は巾着におせんべいとか入れてそう、という監督のアイディア。
最後に
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
ところで、米澤先生が言っていたという裏設定がなんなのか
わたし、気になります。
愛蔵版DVD・BDの特製小冊子は〈古典部〉シリーズファンなら持ってて損はないです!